

会社案内
ご挨拶
有限会社ダイゾー葬祭のホームページをご覧いただき有難うございます。
弊社代表の中田由季と申します。日頃より皆様に可愛がっていただき心より感謝申し上げます。
私がこの仕事に携わってから修業時代も含めて約40年。全く変わらない思いがございます。
今までに面識のない故人の最後の場面で、その方のお世話ができ、立ち会えること、人生の最後の最後のページで関係が持てることに有難く感謝するとともに幸せをいただき誇りです。
月並みですが、ご遺族・ご親族の皆様に「ダイゾーさんに頼んで良かった」「故人も喜んでいる」「ありがとう」と言ってもらえることが、何より嬉しく活力となっております。
葬儀を通して頂いたご縁は葬儀式がおわれば終了ではなく葬儀から始まり、末永くご縁を大切に育んで今後も参りたいとおもいます。
葬儀文化は、長い歴史を通じて連綿と大切に受け継がれてきた葬送儀礼。
私たちもまた歴史に連なる者として「死者の権利」「歴史の重み」に敬意を払いながら、一つ一つの葬儀を大切にし、心に残る時代に合った葬送儀礼をご提案させて頂く所存でございます。
そして、どのような小さな事でもご相談いただければ幸いです。
今後ともどうぞ末永く宜しくお願いします。
葬祭プロデューサー
代表取締役社長 中田 由季
ダイゾー葬祭の歴史
明治10年、北奉公人町(現在の上町三丁目)にて中田虎次が、当時の高知では初めて大衆向けの棺を作り始めました。
豪華な参列もまだ特権階級だけのものでしたが、程なくして都市部を中心に日中参列や、寝棺などが豪華になり葬儀も大衆化が進み、徐々に高知でも取り入れられるようになりました。
その後、告別式、霊柩車などが登場し、葬儀の形は目まぐるしく変化するなかで、地方でも葬儀を行う家庭が増えていきました。
そして、葬儀を取り仕切るのは棺屋であったため、まさに虎次の先見の明であり、中田棺屋は順調な受注のなか本町にも出店するまでになりました。
そして、二代目の芳穂は北奉公人町の作業場を店として改装し、順調に業績を伸ばしていきました。
しかし、太平洋戦争が始まると葬儀や告別式どころではなくなり、昭和22年芳穂が56歳で没したのを機に中田棺屋は一度途切れることとなりました。
それから25年ののち、芳穂の末っ子であった大藏が中田棺屋を継ぐことを決意し昭和47年9月、大藏43歳の時に葬儀業を再開いたしました。
大藏はご遺族との対話を大切にし、なるべくご遺族の意向に沿う葬儀を心掛けていました。
しかし自宅での葬儀で、掃除や家具の移動、料理の準備に追われ悲しむ暇もない遺族を見るたび、自宅以外の葬儀ができないかと思案した結果、平成4年葬儀会館「さくら会館」が誕生しました。
さらに、「故人が多くの方に見送ってもらえるような、参列しやすい街の中心に葬儀会館を」との思いから、平成14年「大藏会館」を堺町に建設。
そこは、初代が出店した本町の近くであり、よく幼少期に遊んだ場所でもありました。
そして平成19年に大藏が他界したのち、由季が四代目に就任後、今に至っております。

初代 虎次

二代目 芳穂

三代目 大藏

四代目 由季